都市化と国民生活の変化

wanwei2025152025-06-19 18:51:01
  都市化と国民生活の変化   1923(大正12)年9月1日の関東大震災後、遷都論もあったが、第2次山本権兵衛内閣は、幹線道路の建設・区画整理などを軸に、東京を再建。江戸情緒はほとんど一掃され、東京の住宅地帯は近郊に広がり、1920(大正9)年に人口220万弱だった東京市は、1932(昭和7)年には近郊の町村を合併し、500万人を超える「大東京」となった。   大正年間、とくに後になると、日本経済の飛躍的な発展、工業化の推進を背景として、とが社会のいろいろな局面で現れ始めた。1903(明治36)年には4540万人だった日本内地の人口は、1925(大正14)年には5974万人に達したが、農業人口はあまり増加せず、人口増加分はもっぱら都市の第2次・第3次産業に吸収された。この結果、明治30年代前半には有業人口の約3分の2を占めていた第1次産業(農林水産業)人口は、大正末期には50%程度に比率を低下させた。   都市への人口集中もはっきりと現れ、1903(明治36)年には人口5万人以上の都市は25(植民地を除く)、その人口は合わせて555万人(内地人口の12%)だったのが、1925(大正14)年には、それが71都市、1213万人(内地人口の20%)に増加した。   東京をはじめ全国の諸都市では、官公庁・公共建築物・会社などを中心に、明治時代以来の赤煉瓦れんが造に加えて、鉄筋鉄骨コンクリートのビルディングが建設され、個人の住宅にも、洋風のいわゆるが盛んに建てられた。都市ではガスや水道設備がかなり普及し、電灯は都市ばかりでなく農村でも広く用いられるようになった。   都市と都市を結ぶ鉄道路線は、原・高橋両内閣におけるローカル線拡張計画などを通じて全国的に広がった。また、大都市の近郊に住宅地帯が広がるとともに、通勤用の郊外電車が発達した。そして大正末期以降、大都市の中心部ばかりでなく、のターミナル駅につぎつぎと(デパート)が開店し、大衆消費時代の先駆けとなった。市街地の交通機関としては、市街電車のほか、明治後期に日本に輸入された自動車が、大正時代になると新しい交通機関として利用され、とくに(バス)が市民の足として盛んに使われるようになり、も現れた。また、昭和初期になると東京にはが開通し都心を結ぶ新しい交通機関となった。なお、明治末期に日本の空を初めて飛んだ飛行機は、主に軍用として発達したが、1920年代後半には郵便輸送や旅客輸送用のも開設された。しかし、利用者はまだごく限られた人たちだけであった。   都市を中心に、事務系統の職場で働く俸給生活者(サラリーマン)が大量に出現したが、そうした職場へ女性も進出するようになり、いわゆるがめだち始めた。女性の洋装化も進み、大正末期から昭和初期には、時代の先端をいく洋装洋髪の若い女性(いわゆるモガ、 modern girl )の姿が、大都市の新しい風俗となった。   こうした状況のなかで、さまざまな社会問題(労働問題・失業救済など)や都市問題(交通・住宅問題など)が取りあげられるようになった。政府が内務省に社会局や都市計画局をおいてこれらの問題と取り組み、職業紹介法・健康保険法・借地借家法などを制定したのも、1920年代前半のことであった。
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